龍神自然食品センターの創業者から後継者へ
50歳から山を切り開き、梅の木を植え、草を刈り、激労に耐えてきた30年。
後継者に仕事を引き継げるときがきました。
私は、4人兄弟の末っ子として生まれました。
3人の兄弟がいずれも20代で結核により他界し、私自身も高校時代までは体が弱く、床に伏すことも多かったです。
一方妻の賀代も結核に苦しんだ過去を持ちます。
私達が結婚したのは今から43年前。
当初は家業でもあり、当時まだ好調でもあった林業を営んでいました。
「完全無農薬の梅干がほしい」という声に応えて結婚後7~8年たったところで、朝日新聞に連載されていた、有吉佐和子さんの『複合汚染』(新潮文庫)を読んだことをきっかけに自家用の米・野菜などの有機栽培を開始しました。
さらに2~3年後には妻が自然食品の店をスタート。
食品添加物の研究で有名な故・郡司篤孝氏がその店に来店したことをきっかけに消費者グループとの付き合いが始まり、「完全無農薬の梅干がほしい」との声を受け、50歳にして林業から梅干作りを着手しました。
50歳から、山を切り開き、梅の木の栽培を開始。
無農薬梅を購入し梅干への加工を行うと同時に、それまで15年ほど、自家用の米・麦の無農薬有機栽培を行ってきた経験を生かし、杉・ひのきを植えていた山を切り開いて梅の有機栽培も開始。
梅干しの素人が、それも50歳で転身し、山林を切り開きつつ、周囲からの非難、カビ・鹿・資金難などの苦難を乗り越え、現在の約1600本という数まで梅の木を増やしてきました。
やっと苦労が報われるように。
ここまでくるには、並々ならぬ苦労がありました。
有機農業は草との戦いと考えます。
農薬をまかない梅山は、年に3回~5回草狩りをしなければなりません。
雨が続くと草を刈った後、10日から2週間でまた草刈りをしなければなりません。
また、鹿からの食害も深刻でした。
草が生い茂っていますと、鹿が草に隠れていると分かりません。
鹿を追い出すこともできません。
梅の木の剪定も重労働でした。
弱っている枝、若い枝、枯れ枝…私は真心を込めて、何百本の梅の木の声に耳を傾けながら剪定を繰り返してきました。
20年程たつと、山の土も梅の木も丈夫になり、安定した収量を得られるようになってきました。
20年たってようやく梅の木がお礼を言ってくれるようになりました。
また、有機への取り組みが自身の健康問題に端を発していることもあり、私の梅への情熱には並々ならぬものがあり、それだけに、協力農家の方や従業員への要望も大きく、ときには衝突も数多くありました。
どんなに苦しいことがあっても、自分の信念を貫き通してきました。
しかし、おごり高ぶることなく、自らが販売元や作業場に足を運び、自分の理念や梅干作りへの姿勢を身をもって周囲の方々に示し、また、対話を続けてきました。
その姿が周囲の方々の心を動かしました。
「龍神梅」の価値を認めてくださる方々に、30年目のメッセージ
良い梅干の伝統を守るという真摯な姿勢と私達が作る「龍神梅」は、多くの方々に感動を与え、「一度龍神梅を食べると、もう一生食べ続けねば気がすまぬ。」という方が後を絶たず、「龍神梅」の生産は毎年追いつかない程です。
在庫を切らさぬように、無農薬の梅を生産してくれる協力農家を募ることに余念がありません。
また、80歳近い年齢になっても毎日梅山に足を運ぶこともやめません。
龍神自然食品センターでは、「青梅の郷便り」(現在の老いも若きも)というニュースレターを定期的に発行しています。
私には、梅干のことを伝える義務がある。
梅をはじめてから30年がたちました。
消費者、生産者、従業員のおかげで、いろんな苦難を乗り越えてここまできました。
農業の中でも、田舎の農業、零細農業、有機農業は継続するのが困難な仕事であります。
その困難を克服し、努力することを生き甲斐と感じる人間であるなら、これ以上の職業はないと思います。
私はこれを天職と考えてがんばってきましたが、もう限界となりました。
何十年もの激労が原因で私はもう重労働はできません。
しかし、これを天職と考える後継者ができました。
息子や嫁が同じ信念、同じ哲学をもって、農家との対応や自家の梅の生産、梅加工に取り組んでいます。
信頼のもてる後継者がいることは幸せです。
私の長年の苦労は報われます。
後継者に対する感謝の気持ちと一緒に皆様にお伝えします。
これらからの梅の仕事は第一番に梅の木にお礼肥をやることです。
その他、草引き、草刈りといった仕事はずっと続きます。
頑張ります。ご安心ください。
平成18年7月吉日
創業者 寒川 植夫