老いも若きも2号|昔ながらの梅干し
私が梅干しづくりをはじめてきっかけは郡司篤孝先生との出会いからでした。
龍神村という山奥で、自然食品店をやっていた私は店番をする程も売れないので、100m四方に聞こえるベルをつけておいて、用件の人あるはそのベルを押してもらうことにして、私自身は田んぼや畑で働いているといった具合でした。
店の前を通りかかった郡司先生がこんな山奥でまわりには自然がいっぱいなのに自然食品の店をするなんてよっぽどの変わり者なのではと思われたのか店によって下さいました。
その時、夫も私も留守でして、応対に出た娘に名刺を渡して帰られました。
私達夫婦はその名刺を見てびっくりしました。
食品添加物の研究や豆腐防腐剤の危険性を訴えられた高名な郡司篤孝先生だったからです。
その日の朝日新聞に郡司先生の講習会が田辺の商工会議所で開催されるということを読んでいましたので、夫と二人講演会場に行きました。
梅干し作りのきっかけ
その時手作りの梅干しをおみやげに持参しました。
その梅干しが消費者の代表の方々の目にとまり、それがご縁となって、梅干しを作ることになったのでした。
山奥で自然職人の店をはじめたのも、昔ながらの梅干しづくりに取り組んだのも、元はと言えば私自身病弱でつらい思いの青春時代を過したからでした。
健康でないと何事もはじまったもんじゃない、幸せの第一歩は健康からということが身に染みている私はみなさまの健康づくりにもお役に立ちたいという熱い思いがありました。
私の母は結核で7年の闘病生活野の後に他界しましたが、17歳をはじめとする4人の子供を残して36歳の若さでした。
どんなに心残りだったことでしょう。
私はその時15歳。
その時の無念さはいくつになっても消えることはなく、年とともに過去が鮮明になってくるような気さえします。
すでに肺結核に侵されて休学していた私は、それから19歳まで闘病生活を続けることになるのですが、肺結核から栗粒結核にまで進行しました。
父はパスやマイシン、新薬が出来ると走り廻っていましたが、その時栄養学の知識しかなく、結核には栄養滋養という考えが先行していました。
母の思い出
粉河女学校を主席で卒業した母は料理のうまい人で、当時珍しくカステラや蒸しパンをこしらへてくれていました。
終戦直後の食糧難で米の変わりにとアメリカの砂糖がバケツ一杯配給されました。
どこの家庭でもそれを米や野菜に変えましたが、母は配給されたその砂糖で飴やお菓子を作ってくれました。
飴など手品のようにくるくるとのばし、特に私はいつも母のそばでお菓子作りを見ていました。
遠足の時のおやつはいつも手作りでした。
色も形も素朴でみんなのとは違い、子供心になんとなく気恥ずかしい思いがしたものです。
あるとき先生を囲んでみんなが輪になっていた時、先生の手のひらにのせた一握りのお菓子。
そのお菓子は大豆に真っ白になる位砂糖をからめたものでした。
一粒一粒丁寧に口に入れ味わってくださった先生は最後の一粒を食べ終わると「お母さんによろしく」と頭を下げました。
私はみんなのお菓子よりも、母の手作りのお菓子を一役下げてみていました。
きれいなセロハンに包んでいないし、形もなんとなくいびつだったのです。
そのお菓子に対しての先生のその態度は子供心に母に対して尊敬の念を抱かせたのです。
母の思い出を語り始めるときりがありません。
日本古来の食べ物
今の私なら、母の病気を治してあげることが出来るかもしれないと思います。
母だってあれだけ生きることに執着していたのですから。
どんな努力もしたことでしょう。
食養の知識がなかったばっかりに無駄な苦労をしてしまいました。
最近、新聞などの死亡報告に四十、五十の働きざかりの方々のお名前を拝見することが多くなりました。
残された人たちの悲しみを思うにつけ、やはり日本人には日本古来の食べ物があるのですから、伝統食を大切にして、守っていかねばならないと痛切に感じます。
平成7年10月発行
寒川 殖夫・賀代